これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

僕が20代半ばの頃、先輩に「30歳を超えると新しいことを学ぶのを避けるようになる」と言われた。

20代半ばの頃、会社の先輩から「30歳を超えると、それまでに培ったことでなんとかしようとするようになって、新しいことは学ぼうとはしなくなる」と言われたことがありました。ふと、そんなことを思い出したんです。

当時の僕は新しいことを学び、取り入れるのが好きだったせいもあり、にわかには信じた外話でした。でも、僕自身はまだ20代なので、30歳を超えたらどうなるかなんて分からないわけです。そういうもんかな…と捉えておくしかありませんでした。

 

では、30歳を超え、もうすぐ40歳へとリーチしそうな年齢になってきたいま、実際はどうだったのか振り返ってみれば、そんなことは全くなかったりします。僕自身の実感としては、年齢を重ねる程に新しいことを学びやすくなったように思います。

相も変わらず、それが興味を持つ分野のことであれば、新しいことを学び取り入れていくのはとても楽しいことです。多分ですが、これからもそうだと思います。

 

それを踏まえて当時のことを考えてみると、あの時、先輩にとっては「年齢」が自分の意見を述べるのに一番使いやすかったんだと思うのです。

それはもしかすると、自分自身の現状を説明するのに使いやすかったのかもしれないし、新しいことを学ぶの止めた理由として使いやすかったのかもしれないし、年下の僕に対しての言葉として使いやすかったのかもしれない。正確なところは僕には分かりません。

 

本当はそんな理由付けはいらなかったんだと思います。単に「私は新しいことを学びたいとは思っていないし、そうしようとも考えていない」でOKだったはず。

そもそも「新しいことを学ぶ=良いこと」ってわけでもありません。物事の善し悪しは、どういう判断基準を持つかで変わるものですから。だから、本音を表現してしまえばそれで良かったはず。

 

でも、僕たちは自分の発言に「味方」を作りたくなるものですので、ちょくちょく一般化した表現をつかってしまいます。「私の意見」ってやつは、ある意味、発言のリスクを全部自分が背負い込むことになりますから、仕方のないことです。

とはいえ、一般化した表現は時に呪いになります。言われた人にとってもそうなる可能性はありますが、何よりも言った本人にとっての呪いに。

僕たちは本当に「自分が見たい情報を積極的に取り入れる生き物」です。30歳を過ぎたら新しいことを学べないと思えば、それを補強する情報をどんどん手に入れます。そしていつしか、それは本人にとって真実のように振る舞うことになります。

 

新しいことを学ぶかどうかは、どっちでもいいと思うのです。本人が決めればいいことですから。

でも、なぜそうなのかについての理由は、なるべく一般化した表現から自分自身に特化した表現にした方が、それが世の中の真実ではなくて、単なる自分の考え方であることを認識できていいのではないかな、と思うのです。

世の中の真実として扱うのか、単なる自分の意見として扱うのか。この間には大きな差があります。前者は極めて変えるのが難しいけど、後者には必要に応じて変えられる可能性が含まれています。

小さなことかもしれませんが、こういったものの積み重ねが人生の自由度を変えちゃうのかもしれないなー、と思ったのでした。