これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

他人のやっていることは正しい?

何か自分が迷っているとき、他人の行動が正しそうに思えることはないですか?


例えば、会社での会議中、リーダーから「みんな」に向けて、意見を求められました。
自分としては言いたい意見があるのだけど、周りの様子をうかがうと、誰も発言しようとしない。
どうも、ここは黙っておいた方が行動として妥当なようだ。


しかし、しばらくすると、ある人が発言をしました。
それに対して、リーダーが回答し、さらに発言が相次ぎます。
何だ、みんな言いたい意見があったんじゃん。
今度は、意見を言わないことの方が間違っているように感じ、自分も思いきって発言をすることにしました。


こういうことって、ありそうですよね。
え、私だけ?
まぁ、あるって事にして強引に話を進めます。


この例え話の中で、一体何が起こっていたのでしょうか。


そもそも、人間を含む動物には、模倣は大抵「いいこと」となっています。
なぜなら、他者を真似ることによって、他者の経験を自分のものにし、その環境下における生存確率を上げてくれるからです。
ですので、私たちも、周りの人たちと同じような行動を取ることが、比較的好ましいことに思えるよう、作られています。


しかしながら、現代社会においては、この性質がマイナスに働くことも多々あるわけです。
先ほどの会議の例で言えば、なかなか意見が出てこない。
最初の1〜2個の意見を出して貰うまで、とても大変・・・など。


他人を真似ることが正しそうに感じるのですから、こうなってしまうのは仕方のないことです。


ただ、この性質を利用することで、意見が活発に交わされる会議の場を作ることも可能なわけです。
意見を言うことが普通だ、という流れが一度できれば、そこからはこの模倣の原理が働いて、自然と活発な場が維持されていくのだと思います。
このメカニズムを理解しておけば、会議運営にあたって、色んな工夫が思いつきそうですね。


ところで、今回の話を大きな視点で捉えると、今のこの社会の中で、多くの人がどんな行動を取りやすいのかも、大体見えてきます。


世間的に正しい、賢いと思われるような生き方に流れやすいのです。
多くの人がそう言っているから、多くの人がそうしているからという理由で、それに沿った選択が正しいように感じます。
でも、それで満足を得られることはなかなかないのです。
だって、他人の価値観で生きているのと同じですから。


あるいは、思い切って踏み出したのだけど、周りと何だか違う位置にいることに不安と孤独を感じ、押しつぶされてしまいそうになることもあります。
半ば強制的に、仕方なくそのような状態になった人もいるかもしれません。


そんなことを考えていると、私は悲しくなります。
もっと、みんないきいきと、人の目を過剰に気にすることなく、自身の思うところに従って、軽やかに生きて良いのです。
社会のメッセージで、あなたの希望と情熱を殺さないでください。


私と、そして参加してくれるみんなと一緒に、あなた自身が「自分の価値観を大切にする人生」のために、一歩、踏み出してみませんか?
私はそんな仲間が欲しいな、って心から思っています。
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