これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

解釈の時代だからこそ、正しさに依存せず自分の望む世界観を語ろうか。

今は解釈の時代だ!と主張してからここ数回、僕たちの生きる社会の傾向についての記事を書いてきました。一応、今回で一区切りにしようかと思っています。読んでくださった方には、小難しい話に付き合ってもらってありがとうございます^^;

 

ここまでの振り返り

  1. 真実が見えない「解釈の時代」を生きる僕たちは、生き方を選択する難しさに直面する。
  2. 僕たちはこの「解釈の時代」にどのように辿り着いたのか
  3. 人類史上、最もコンテンツが溢れている時代を生きるということ。
  4. 評価と信頼を確立することが、僕らに自由と生きる糧をもたらす。

 

前時代の価値観は、今の時代の価値観に従属する

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photo credit: Nanagyei via photopin cc

パラダイムシフトを境にに社会の傾向が変わる

今回はパライダムシフトと価値観の変化について考えていきます。まずパラダイムとは何かというと、以前も書きましたが、「その時代においてある程度共有されている共通の価値観」のことを指しています。

こういうものがいいよね、こうしたほうがいいよね、といった認識が大勢の人によって共有されている時、それはパラダイムといってもいいかと思います。パラダイムシフトとは、そういった共通の価値観が変遷することを言います。

時代の変化が先なのか、価値観の変化が先なのかは分かりませんが、パラダイムシフトが起きるとそこを境に、社会の傾向もガラッと変わります。

 

パラダイムシフトと価値観の変遷

で、今回取り上げたいのは、「パラダイムシフトが起きると、前パラダイムの価値観は現パラダイムに従属する」ということです。はい、また小難しい表現ですよね~(やれやれ)。

大雑把に言って、僕たち人類の社会は、物質面重視の価値観と精神面重視の価値観を交互に繰り返しています。宗教中心の時代があり、次に科学中心の時代が来ました。

そのパラダイムシフトにおいて、「宗教を生活の中心においた生き方」から「科学技術を生活の中心においた生き方」へと変化していったわけですが、かといって宗教が価値を持たなくなったわけではありません。

科学技術を活用した豊かで安定的な生活を営みつつも、その中でより良く生きるための「ツールとしての宗教」は以前として価値を持っています。従属するとは、この順番が決して入れ替わらないことを意味します。

つまり、宗教的な価値観に則って生きるために、科学技術を使った生活を捨てるかというと、それは多くの人にとって有り得ないわけです。あくまでも科学の力に頼った生き方が主であり、それを前提とした道具としての宗教なんですね。

 

科学中心の時代から、解釈中心の時代へ

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photo credit: danorbit. via photopin cc

「正しさ」から「どんな世界でありたいか」へ

さて、そんな時代がまた変わろうとしているのが、まさに今なのですが…いま起きているパラダイムシフトは、僕の考えでは「科学中心の時代から、解釈中心の時代へ」なのです。

科学のパラダイムで重視されるのは、正しさです。再現できることであったり、観測して実証できることであったり。

ところが、解釈のパラダイムで重視されるのは「どんな世界でありたいか」なんですね。これまで、科学的な正しさの追究と、それをベースにものごとを発展させることで、僕たちは幸せな世界を実現できるんだと考えていました。

では、実際のところどうったのでしょうか。確かに、科学は僕たちの世界を便利なものにしてくれました。しかし、それは本当に幸せなことだったのでしょうか?答えはYesでもあり、Noでもあります。

 

科学の発展と僕たちの幸せはイコールではなかった

例で考えてみましょう。

科学の恩恵の一つとして考えられるのが、交通手段の発達です。移動範囲の拡大は、僕たちの行動圏を圧倒的に広げてくれました。そうすると、僕たちはより便利な生活げできるところへと一極集中するようになります。

自分の取り得る選択肢が広がれば、その中から一番便利なものを選んでしまうのは当然のことかもしれません。人が集まればそこにニーズも生まれますので、それに呼応するように、道具やシステム、ビジネスが生まれ、ますます便利な社会になっていきました。

一方で、その結果として満員電車の通勤なんてスタイルが、当たり前のように受け入れられるようになっています。都市部へ生活圏を移す人が増えたため、過疎化が加速している地方もあります。

”便利になる”というのは、常に功罪が一体です。僕たちは、科学が発展すると便利になることもたくさんあるけれど、同時に嫌な出来事も起きてしまうことに気づいてしまったのです。

 

科学が解釈に従属する時代へ

結果、科学がもたらしてくれた便利さの負の側面に気づき、それが嫌だと考える人が増えてきました。いまどんどん解釈中心の時代へと移り変わろうとしています。

僕(私)はこう生きたいんだ!そんな思いを中心において、生き方を変えようとする人はたくさんいます。このような解釈中心の時代に突入するにのにあわせ、科学の立場にも変化が訪れます。

今や「正しいことが幸せにつながる」と考える人は、あまりいないようです。科学を発展させることよりも、人間らしい生き方といったものに価値観を置く人も増えました。スローライフ、シンプルライフなんて言葉も生まれましたよね。

科学が直接僕たちを幸せにしてくれるのではなく、先に幸せのカタチを決めた上で、そのために科学の利便性を活用する。パラダイムシフトに伴い、科学は解釈に従属するようになったのです。

 

解釈と科学の微妙で素敵な関係

解釈の時代の病:似非科学問題

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photo credit: Stuck in Customs via photopin cc

科学は、僕たちの解釈の正しさを説明してくれたり、解釈を実現したりするための、「道具」として活躍するようになった。科学は、僕たちが「こんな世界を実現したい」と願う時、それを実現するための強力な味方になってくれます。

こんな風に書くと良いことばかりのようにも感じますが、常に物事には別の側面が存在するというのが真実でしょう。

インターネットに慣れ親しんだ方であれば聞いたことがあるかもしれませんが「似非科学問題」というものがあります。自分たちの解釈に力を持たせるために、科学の「正しさ」というイメージを利用しているケースです。

科学的に実証された~などといった宣伝文句を耳にすることが、時々ありますよね。しかし、本来「科学的な正しさ」はとても扱いが難しいものです。条件を限定した上で、実験と検証を繰り返すことで、ようやく再現性のある結果が得られるのです。

そうやって苦労して見つけた法則ですら、後になって間違っていたことが明らかになることすらあります。正しさを証明することは、本来、非常にデリケートなものなんです。

 

解釈の世界でよく起こることとして、

  1. 部分的な出来事を普遍的な法則であるかのように語るパターン
  2. 観測された出来事を自分色に解釈した後、それを事実であるかのように語るパターン

があります。科学の持つ正しさという力が、この2つのパターンととても相性がいいんです。

つまり、たった1回の実験結果や、望ましい結果のみをピックアップして、”科学的に実証された”と表することがあるんです。これは正しさを「装った」単なる解釈に過ぎません。

解釈中心の世界では、こういった負の側面も加速しやすいのです。自分の望む解釈に科学の裏付けがつくことは、とても魅力的なことですからね。

 

解釈に力を持たせたいなら、世界観で語れ。

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photo credit: woodleywonderworks via photopin cc

さて。僕個人の考えとしては、そんなのはカッコ悪いと思うのです。僕たちの解釈に力を持たせたいのなら、僕たちの世界観で語りましょうよ。自分の描く世界の広さと深さを思う存分に表現して、その世界自体が持つ強さによって解釈に力を与えましょうよ。

科学とのより良い付き合い方は、僕たちの世界を実現するための「道具」として使うことだと思います。

解釈の時代においては、様々な理想が描かれるでしょう。ただ、どんな理想を描こうとも、現実として、僕たちは物理的な制約下におかれます。現実と僕たちの描いた世界をつなげてくれるものは、依然として科学です。

科学とは人類の叡智です。多くの人々の膨大な時間と労力と、そして情熱によって作り上げられた人類の共有財産です。

先人が見出してくれた、そして今も発見され続けている様々な法則や因果関係は、人々を説得するために使うのではなく、もっと実利のために活用しましょう。

僕は、そう思っています。以上で、全5回に渡る「解釈の時代」に関する考察は一旦終了です。