勇気って、人間特有の行為だなぁと思うのです。
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動物には多分ですが、勇気はありません。例えば、動物で母親が子供を守るために天敵に立ち向かっていく様を見て、僕たちはそれに「勇気」と意味付けするかもしれません。
しかし、恐らくそれは「怒り」であって、勇気ではないのです。怒りとは、自分の大切な何かを守るために使う感情だと言われています。何かを守る必要がある際に、怒りという感情のスイッチを入れ、天敵から守るための行動を起こせるようにしているのでしょう。
勇気とは理性の産物
僕は勇気とは感情的な行為ではなく、理性的な行為だと思います。
僕たちが勇気を振り絞る時、感じている感情は不安や恐怖です。怖いんですね。不安や恐怖を感じたなら、その原因の回避を目指すのが、動物としての正しい生存戦略なんです。
ところが僕たち人間は、時折、その生存戦略に反した選択を取ります。不安や恐怖を感じているのに、怖くて逃げ出したいのに、それに立ち向かおうとすることがあるのです。
怒りを感じているのではなく、不安や恐怖を感じたまま、それに立ち向かう。その様を指して、「勇気ある選択」と呼ぶのでしょう。
では、僕たちは何のために勇気ある選択を取るのでしょうか?不安や恐怖よりも優先した何かとは一体?
3種類の主観的な正義
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それを理解するために、主観的な正義について考えてみます。
僕たちは誰しも「主観的な正義」を持っています。正義という言葉に語弊があるなら、合理性とでもいいましょうか。
他人から見たらおかしな選択であったとしても、本人にとっては正しい合理的な選択だったりするのです。
①集団全体の利益を優先する正義
その「主観的な正義」には、概ね3つの立場があります。
1つ目は、集団全体の利益を優先する考え方です。ベンサムという人が主張した考え方で、功利主義とも言います。
何かを選択する際には、集団の幸福が最大化することを目指します。目先の損得に流されずに、中長期的な集団全体の幸福を考えられる人は、こういった立ち位置から物事を観ていることが多いようです。
一方で、会社の売上の為に社員が長時間労働を強いられる、なんてことも起きやすく、この考え方に批判的な立場を取る人もいます。
②個人の権利と自由を優先する正義
2つ目は、個人の利益を優先する考え方です。
確か、ジョン・ロールズという方が主張したのかな?(違ったらすみません)人間は生まれながら自由に生きる権利を有しているし、他者によってそれを侵害されるべきではない、と考えます。
現代の民主主義の基本となった考え方でもありますので、もしかすると多くの人が好む考え方かもしれませんね。
③あるべき振る舞いを優先する正義
3つ目は、道徳的な振る舞いを優先する考え方です。
人としての在るべき姿、親としてのあるべき姿、子供としてのあるべき姿、プロとしてのあるべき姿、などなど。そういったものを選択の基準とします。
定言命法といいます(詳しくはカントを参照)。最初の2つの考え方は、選択の正しさを示すのに条件が必要となりますが、定言命法では無条件に正しい行為があると考えます。
例えば、「相手の自由を侵害するから、ウソをついてはいけない」ではなく、単に「ウソをついてはいけない」といった感じです。
前者の考え方に則ると、”相手の自由を侵害しないならウソをついてもいい”ということになるのですが、定言命法に乗っ取ると、”いついかなる時もウソをついてはいけない”ということになります。
よって、いついかなる時も人としてのあるべき姿に沿うことを選択の基準とします。
3つの立場の上に僕たちそれぞれの正義がある
また話が小難しくなってきました。いま少しお付き合いください^^;
この3つの立ち位置は、それぞれどれが良くてどれが悪い、というものではありません。僕たちは、これら3つの立ち位置の間を漂いながら、人それぞれに自分なりのバランスを保っているはずです。
その自分なりのバランスこそが「主観的な正義」です。誰かと意見が食い違う時、相手がどういった立ち位置から物事を判断しているのか、ちょっと想像してみると、意見の違いを客観視できて良いです。
人は皆、それぞれの主観において正しく合理的な振る舞いをするのです。他人が間違っているように見えるときは、単にその人が自分とは違う「主観的な正義」があるだけのことです。
勇気とは恐怖や不安に抗しながら、
己の信念の為に理性的な振る舞いを貫くこと
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話を「勇気」に戻します。僕たちは何のために勇気を振り絞るのでしょうか?それは、自分たちの主観的な正義の為です。
ある人は、人類のために、会社のために、家族のために勇気を示すかもしれません。
ある人は、自分や誰かの自由に生きる権利のために勇気を示すかもしれません。
ある人は、人としてのあるべき姿、プロとしてのあるべき姿のために勇気を示すかもしれません。
不安や恐怖に負けそうになりながらも、どうしても裏切ることのできない「主観的な正義」を振るまいとして示した時、その様を指して「勇気」と呼ぶのだと思います。
感情や欲求に流されるのではなく、己の信じることの為に理性的な振る舞いを貫くことができる。
人間の面白いところですね。