これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

目的意識を持つには?…持たなくてもいいかもですよ!

Q. 目的意識を持っていきていくには?
  なぜ自分がそう考え、行動しようとするのか答えが見つからない…。

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photo credit: Alex Abian (Also on flickr.com/alexabian) via photopin cc

行動は手段なので、しっかりと目的がないと「手段の目的化」になっちゃいますよね。だから、目的意識を持つことは大切…などというと思ったら大間違い。目的意識なんてくそくらえです(・∀・)

行動しようとする答えが見つからないのは、全然OKです。もちろん、納得のいく目的を見つけたいのなら、探し続けてもOKです。ただ、見つからないのがダメってことは無いのです。

 

なぜそう行動するのか?についての答え

まずは「なぜそう行動しようとするのか?」という問いに答えておきましょう。

僕たちが何故、そう行動するのか。その答えは目的にはありません。行動するのは、行動の直後に何らかの結果が伴っているからです。僕たちは行動に伴う変化を理由に行動しています。ただそれだけです。

 

好子出現の強化、嫌子消失の強化

もう少し詳しく説明しましょう。

行動に伴って直後にプラスになる何かを得られる場合、これを好子出現といいます。好子出現を体験すると、僕たちはその行動に積極的になります。

また、行動にともなって直後にマイナスとなる何かが無くなる場合、これを嫌子消失といいます。嫌子消失を体験すると、やはり同じように、僕たちはその行動に積極的になります。

ですので、僕たちが行動する理由は、好子出現か嫌子消失のどちらかです。

 

なんだか身も蓋もないですね。まぁ、でもそうなってるんだから仕方ないっすね。

ここで知っておいてもらいたいのは、行動の理由が僕たちの意思だとか、目的意識にあるって考えるのは幻想だってことなんです。だから、幻が見つからないからといって悩む必要はないということなんです。

行動の理由は、それとは全く違うところにあるのですから。

 

僕たちの体験の質を左右する「行動の文脈」

行動の文脈から読み解く僕たちの体験

さて、それでも目的意識を問うことには意味があります。

その理由は「行動の文脈」にあります。行動はどんな文脈の下で実行されるかによって、僕たちの体験を変化させます。

例えば、僕はいまキーボードを打っています。キーを打つと画面に文字が現れます。これは好子出現による行動の強化であり、つまり僕がキーボードを打つ理由は「画面に文字が現れるから」ということになります。打っても打っても文字が出てこないなら、僕はキーボードを打つのを止めてしまうと思いますw

でも、行動の理由が分かったとしても、僕がいま何を体験しているかは分かりません。

僕のキーボードを打つという行動は、いま「ブログの投稿」という文脈の中にあります。ブログを投稿できると、僕は「今日もブログを継続できたぞ」とか、「また誰かが読んでくれるぞ」とか、「それはとても嬉しいなって」とか、そんな体験をすることになるんですね。

 

行動の文脈を自覚することが、体験を良質なものにする

ですので、画面に文字が現れるという変化は、ブログを書くという文脈の下では、僕にとって上記のような体験をいままさに得ようとしていることを示しています。それを自覚することは、僕のブログを書くという体験をより良質なものにしてくれています。

目的意識を問うことの意味は、ここにあります。

もしあなたが行動の目的を探したいと思うのであれば、まずはその行動に伴って起きる変化を見つけてください。そしてその変化はどんな文脈の下で起きているものなのか、その文脈の下ではどんな意味があるのかを自覚してみるといいでしょう。