これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

知の目覚め(5):知の目覚め、翼を与える。

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photo credit: AlicePopkorn via photopin cc

知の目覚めシリーズの最後になります。ここまでの内容を振り返ってみると、

  1. 思考は人にとって最大の喜び
  2. 「分からない」をそのまま置いておくと、新たな知の受け皿となる。
  3. 喩えることができれば、思考は新たな景色が見せてくれる。
  4. 感情の奴隷となるか、それともエンターテイメントとして楽しむか。

です。気になる方は読んでみていただけると嬉しいっす。

 

知性、とりわけ言語を使った「思考という人特有の活動」は、生きていく上で自由の翼にも足かせにもなります。そして、現代社会に生きる僕たちにとって不幸なことに、自然にしていたのでは、多くの場合、思考は足かせです。

考える必要のないことで悩んでしまったり、ネガティブな感情を増幅させて病んでしまったり、そんな自分は精神的に不健康な状態だと思い込んでしまったり…。

 

考えることの限界について考えてみよう。

思考を自由の翼とするか、それとも足かせとするか

僕たちにとって考えることは、あまりにも当たり前の活動なので気づきませんが、思考の持つ力は非常に強力なものです。知の目覚めとは、そういった思考の持つ現実的な作用に気づき、思考を自分の人生の味方にすることを指しています。

人生の味方。

うん、書きながらようやくしっくりくる表現が見つかりました。思考が僕たちの味方になってくれるように、知の目覚めシリーズを書いてきたんだな~と。

それで、最後に書くことっていうのは、思考の限界についてなんです。思考は確かに強力だけど苦手分野もあるので、そこのところもしっかり抑えておくと、思考に活躍の場を与えやすくなります。

といっても、そんな特別なことを書こうとしているわけではありません。

考えることの限界とは、リアルな体験が得られないこと。これに尽きます。当たり前ですけどね。その当たり前のことを行動分析学の観点で解説しながら、書いてみたいと思います。

 

体験とは行動の学習機会

そもそも体験とは何でしょうか?はい、ここでもどんな文脈で「体験という言葉」を捉えるかで、解釈が変わります。

僕は行動分析学の文脈で捉えますが、そうすると「体験とは行動の学習機会である」と解釈します。それが成功体験であろうと、失敗体験であろうと、僕たちにとっては等しく行動を学習する機会です。

 

僕たちの行動は、常に「きっかけ⇒行動⇒結果」または「きっかけ⇒反応」によって分析できます。

すごく省略して説明すれば、良い結果が得られればその行動を繰り返すし、悪い結果が得られればその行動は避けるようになります。僕たちはそんな風に行動を学習します。

また、反応については、パブロフの犬と同じで、ある場面で得られた感情・間隔と、その場面に存在する刺激とを、条件付けによって関連させるようになります。可愛いチワワに噛まれて、もし恐怖を感じたとしたら、そのチワワに怖さが条件付けされるかもしれません。

とまぁ、そうやって、自分の置かれた環境において、どのような行動を選択することが有効なのかを学んでいくんですね。”体験”を通して。

これが、僕たち人間を含むすべての動物に適用される行動の法則です。

 

考えるだけでは行動の学習は起きない

それに対して、考えるとはどういうことでしょうか?

大雑把に言えば、考えるとは、目の前の事象に過去の体験を当てはめることです。僕たちは、過去に学習した行動や反応を思い出すことで、目の前の事象を解釈し、選択の参考材料とします。

そこに「行動の学習」は存在しません。考えることで、過去に学習した行動を活用することはできます。でも、新しい行動が身に付くことはありません。

 

例で説明しましょう。例えば、今まで行ったことの無いところに、地図を見ながら歩いていくことはできます(これは凄い能力です!)。それは僕たちが歩くという行動や、地図を読むという行動を身に付けているからです。

でも、いままで自転車に乗ったことが無い人に、自転車の乗り方という本を読ませたところで、自転車の乗れるようにはならないですよね。

すごく単純な話なんです。思考ができることは、あくまで過去に学習した行動を活用し、応用することであり、新たな行動を学習することはできないのです。

 

考えるだけでは自由は手に入らない

行動パターンが最適化しすぎると、行き詰まりやすくなる。

行動を学習しないということは、どうしても行動の傾向がワンパターンになるといいうことです。今いる環境に最適化された行動が優位になっているだけなのですが、こいつがなかなか厄介でして。

行動のレパートリーが少ないと、環境の変化に伴って起きる出来事に柔軟に対応できなくなります。なにせ今の環境に最適化されちゃってますから、環境変化に適応しにくいのです。

そうすると痛い目ばかりに遭ってしまうので、なるべく環境を変化させないような選択をとりがちになるのですね。変化が億劫になるし、不安だし、怖いし。

で、それで更に行動の学習機会が少なくなりますから、年を重ねるに従って、柔軟な対応力が失われていくわけです。それが「考えるだけの人」の限界です。

 

思考を味方につけ、行動を応用しよう

もっとも、行動するだけの人も、容易に思考の罠に嵌りますから、やはり僕たちには”知の目覚め”が必要なのだと思うのです。

思考を味方につけることができれば、僕たちは学習した行動を存分に有効活用することができます。知の目覚め、翼を授ける。(c)レッドブル(ぇ

思考は僕たちに新しい能力・技術をくれるわけではありませんのが、もともと僕たちが持っている能力・技術を120%以上引き出してくれるのです。もう創造力全開です。

 

だから、行動と思考は、人生を円滑にまわす両輪なのです。