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将棋やサッカー等の勝負事をみていて薄々と感じていることですし、時折目にする意見でもあるのですが、「能力や努力」と「成果」ってのは、やっぱり一致しないのかな、と思うのです。
僕はしばしば将棋の対局をネットで観戦したりするのですが、将棋棋士ってのは、皆、狭き門をくぐり抜けた天才ですし、プロ棋士になってからも相当な努力をしていると思います。しかし、勝ち負けという結果が明確に出ます。年間で7割以上の勝率を出す棋士もいれば、4割弱しか勝てない棋士もいる。
まぁ、将棋やあるいは他のスポーツなどは勝負ごとですので、こういった傾向が顕著に現れてしまったりもしますが、僕たちが普段やっていることについても、似ている部分があると思うのです。
パフォーマンスの質は、努力の質と量に比例する
そのことを説明するのに、まず「パフォーマンス」という言葉を定義しておきます。パフォーマンスとは、その人が発揮することができる能力を指します。
たくさん努力したり、訓練すれば能力のポテンシャルは上がりますし、食事、運動、睡眠等に気をつけ、体調を整えれば、その時に発揮できる(ポテンシャルの範囲で)能力は上がります。
いずれにせよ、その瞬間に発揮できた能力のことを指して、「パフォーマンス」といいます。
行動分析学の有用性の1つは、「その人がパフォーマンスを発揮するために、必要となる行動を支援するための法則、ツール」が提供されている点にあります。
だから、僕たちは行動分析学の知見を活用して、自分のパフォーマンスを高めていくことができます。
これは、もう、やればできちゃうものです。大抵の人が練習すれば自転車に乗れるようなものです。あるいは、ちゃんとトレーニングすれば、かなりのスピードで自転車を漕げるようなものです。
つまり、努力の量と質は、パフォーマンスと比例します。頑張れば報われる世界です。
努力の量と質が比例しないタイプの成果がある
さて、一方。成果と呼ばれるものについて考えてみます。まず成果には
- 自分一人に完結した個人的な成果
- 他人や社会との相互作用の結果で得られる社会的な成果
の2つがあります。
前者の代表例は「ダイエット」や「語学習得」かと思います。これは自分の努力次第で何とかなりますので、パフォーマンス=成果という図式が成り立ちます。
一方、問題は後者です。冒頭にあげた将棋の例はこちらになります。ビジネス、恋愛、就職、出版…といったような社会的な成果では、大なり小なり、パフォーマンスと成果が一致しなくなります。
社会的な成果が得られるかどうかは、確率的な世界になります。だから、あまり努力をしていない人がたまたま成果を出しちゃったり、ずーっと努力しているのになかなか成果が出ない人がいたりします。
また、時々、何度も社会的な成果をあげている人がいますが、よくよく話を聞くと「確率が上がる仕掛け」を用意していたりします。きっと確率的な世界の動きを、その人なりにある程度イメージできているのでしょう。
というわけで、努力したり頑張ったりしても、パフォーマンスはあげられるけど成果が得られるとは限らない。もっと身も蓋もなく言ってしまえば、努力は報われるとは限らない、ということです。
少うとも「報われること=成果」という定義においては、そうならざるを得ません。
努力することに価値はあるのか?
でも、こんな言葉もありますよね。
「努力すること、それ自体に価値がある」
これってどういう意味なんでしょうか。あまりに厳しすぎる現実から目を逸らすための、綺麗事なんでしょうか?
そうかもしれませんし、そうではないかもしれません。結局のところ、努力自体に価値があると考えようとも、そんなのは綺麗事だと切り捨てようとも、それらは別々の立場からの解釈でしかありません。
だから、努力に対する意味付けをどうするかは、僕たちがどういう解釈を選択するかで決まります。
そして、僕自身の解釈を共有させてもらうなら、”努力することには、それ自体に価値がある”と考えています。
故に、成果が得られないかもしれないことが分かりつつも、僕たちは「パフォーマンスを向上させるために、努力し、行動し続けた方がいい」と考えています。
何故か?
その理由を答えるには、僕たちの自由とは何か?幸せとは何か?という問いに対する、僕の答えを示す必要があります。
というわけで、続きは次回。