先日、友人とお酒を飲みながら、理想は必要や否や、みたいな談義でプチ盛り上がり。
ロジカルに考えていくと、理想はあった方がいいんです。現状があって、理想があって、そこにはギャップがある。で、ギャップを埋めるための課題を見つけ、課題を解消するために行動(習慣)を変えていく。
このアプローチは王道です。正しく実行できれば、間違いなく現状を改善できると思います。
しかし。
正しく実行するのがとても難しい、と僕は考えています。
とりわけ難しいところが「理想」を見極めることです。僕たちにとって、自分の理想が何かはっきりさせるには、かなりの困難が伴います。
これが自分の理想だと思いつつも、喉に魚の骨が刺さっているかのような引っ掛かりを感じます。この引っ掛かりの正体は、一体何なのだろう…ということなんです。
そもそも僕たちは、いまやたくさんの理想に触れることができる時代に生きています。情報の流通量・速度が上がってしまったこともありますし、成功哲学というジャンルが確立しているせいもあります。
そんな社会で生きる僕たちが、どのように「理想」に触れるかというと、
- 私は以前、□□という状態でした。でも、今や私は○○という成功を成し遂げました!
という成功体験と共に、
- 私が成功した方法は△△です!
というメソッドが語られる、といった感じです。
この構造は、まぁ、パターンです。ビフォーで共感し、アフターに憧れ、そのメソッドは自分にも実践できそうに思える。だから、その成功がとても身近に感じられるんですね。じゃぁ、僕もやってみよう!なんて希望を持てるわけです。
これ自体は、僕は別に悪くないと思っています。
誰かに憧れて、その人が推奨しているものに取り組み、頑張っているのが楽しいことも多々あります。
ちょっと話は逸れますが、僕は将棋が好きです。
中でも「右玉」という戦い方が好きなんですが、それはプロ棋士の糸谷五段が使ってみるのをみて憧れたからです。紙一重で相手の攻めをすり抜けていく様をみて、かっこええーーーー!と思ってしまったんですね。それ以来、僕の理想の将棋みたいなものが頭に焼き付き、それに近い指し回しができたときは、とても楽しいのです。
これも先ほどの理想に触れる際のパターンと同じです。こんな話はあちこちに転がっているでしょう。イチローに憧れる野球少年なんて、たくさん居るはずで、彼のようにプレイすることを目指すのが楽しいわけです。
というわけで、僕たちは「情報として与えられた理想」に憧れます。それを自分の理想とするのは、構いません。その理想を目指す過程が楽しいなら。
サラッと書きましたが、ここがポイントですよね。過程を楽しめるかどうかが、全てなんです。
与えられた理想に、僕たちが苦しんでしまうこともあります。
- あの人のように成功したい!
- あの人は○○をやれ、と言ってた。
- だからやらなきゃ!
そして実際にやってみると苦痛を感じる。楽しさがそこにない。なかなか思うように行動できない。理想へと近づけない自分を責めたり、変わらない現状に失望や無力感を感じてしまう。
こうなってしまうと、キツイですよね。何故、こうなってしまうんでしょう?
僕は理想というものの捉え方に、根本的な勘違いがあるのではないかと考えています。よく理想を目的とし、行動を手段と捉えることがあります。理想を実現するために、この行動がある。
別に間違ってはいないと思うのですが、僕たちの生きがいであるとか、楽しさということを考えてみると、全く違う様相が見えてくるものです。
僕たちの生きがいや楽しさは、常に行動と共にあります。行動そのものや、行動の直後に得られる変化が、僕たちにたくさんの感情をもたらしてくれるのです。
だから、生きがいを感る行動が多いなら、その人生は生きがいで満たされていくでしょうし、苦しさ・辛さを感じる行動が多いなら、人生は苦しさや辛さで満たされていくでしょう。
そうすると、生きがいを感じる行動をすることが目的、と考えた方が実はしっくりとくるのではないか、と。
行動が目的だとするならば、理想を持つことは手段の一つです。
目の前の行動に生きがいや楽しさを感じるために、理想を持つことが役に立つなら、その理想を持てばいい。そうでないなら、その理想はとりあえず忘れた方がいいです。
更にいえば、そもそも生きがいや楽しさを感じられる行動が分かっているなら、理想がどうとか考えるよりも、その行動に専念できた方が遥かにいいです。
現実的な制約は色々あるでしょう。お金が無いとか、時間が無いとか。
でも、その辺と少しずつ折り合いをつけながら、生きがいや楽しさを感じられる行動を増やしていくことを考えてみてください。下手に理想を描くよりも、遥かに効果的だと思うんですよね。
というわけで、今日の結論は、「生きがいや楽しさで人生を満たすために、手段(行動)を目的にしよう!」でした。